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以前紹介した(ブログその①)こともあるピエールフォン城。また、行ってきました。
今回は、ブログ第2弾ということで、少し違う角度から。
ピエールフォン城は、17世紀に破壊され、その後2世紀の長きにわたって廃墟でしかありませんでした。当時は、石材置き場ぐらいにしか認識されていなかったようです。
この廃墟の城をナポレオンは購入しますが、なぜ、廃墟をわざわざ買ったのか?実は、この時期、フランスでは考古学ブームがやってきたのです。
18世紀半ばにポンペイの遺跡が発掘されたことで、過去の遺産を評価する考古学的意識が盛り上がってきました。それから、遺跡、廃墟は「絵になる=ピトレスク」な場所として、再評価されるのです。
話はそれますが、ナポレオンの公式画家だったルイ・ダヴィッドは、ナポレオンの命により、当時のファッションリーダーである、レカミエ夫人の肖像画を作成しています。ルーブルにある絵です。
彼女が着ている服、パジャマではありません。古代ギリシャ人が着ていたキトンです。寝椅子に横になっているのは、古代ギリシャでの饗宴では、このように寝椅子に横になって宴会をする風習があったためです。
ナポレオン失脚の後、ルイ=フィリップ仏王はこの廃墟にて、娘の結婚式の饗宴までやっています。廃墟ブームです。
このように、当時空前の考古学ブームに沸いていた、ということです。
この考古学ブールの延長にいるのが、プロスペル・メリメという人物で、第二帝政時代のフランス歴史記念物監督官だった人物です。彼は、南部・東部・中部フランス及びコルシカへ視察旅行を行い、保存する価値のある建築物リストを作成していきます。そのリストに記載されることで、多くの建築物、廃墟が破壊を免れることができました。
そのリストは、今日の歴史的建造物リストの元になるもので、現在の世界遺産の先駆けでもあります。ちなみに、現在のフランスの歴史的建造物リストは彼の名にちなんで、「メリメ・データベース」と呼ばれています。
プロスペル・メリメがピエールフォン城を視察し、ナポレオン3世の指示のもと、彼の友人であったヴィオレ・ル・デュクに修復を頼みます。
その結果、ピエールフォン城はこのヴィオレ・ル・デュクの作品といってもいい建築になりました。礼拝堂の正面には、聖ヤコブに扮した、ヴィオレ・ル・デュクが。
ヴィオレ・ル・デュクの修復の考え方は、現在とは少し、というかだいぶ違いました。彼にとっての修復とは、「当時の姿を忠実に再現すること」が目的ではなく、「それが以前存在していなかったとしても、理想形の姿を再創造」することでした。その結果、ピエールフォン城は、ヴィオレ・ル・デュクの修復をへて、考古学的資料としての価値を失い、後世多くの批判を受けることになりますが、同時に、19世紀の知識人たちの考える「理想的古城」の姿を提示することにもなりました。
理想的姿なだけに、見学者を圧倒する存在感をもっている古城。それが、ピエールフォン城です。
理想を実現した、2階建て祭壇をもつ礼拝堂は、モンサンミッシェッルの修道院のてっぺんにあるのと同じ、フレミエ作の大天使ミカエルを見学することができます。
観光は、車で約20分ほどの場所にある、コンピエーニュ城と一緒にどうぞ。
ピエールフォン城
Château de Pierrefonds
Rue Viollet le Duc, 60350 Pierrefonds
(渦)
パリからお手軽古城巡り ~ピエールフォン城 その②
2016-05-16
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