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現在グランパレで開催されているトゥールーズ・ロートレック展に行ってきました。
会場平日の午前中にもかかわらず、結構並んでいました。いらっしゃる方には、前売り券をお勧めします。トゥールーズ・ロートレックというと、モンマルトル、とくにムーランルージュのポスターを描いた画家というイメージが強いですが、それだけではない、もっと多様な画家としてのトゥールーズ・ロートレックを見ることができます。
ラングドック地方の貴族であったアンリ・トゥルーズ・ロートレック・モンファは、1864年アルビで生まれました。幼少から絵画に興味を持ち、1882年、パリに出てフェルナン・コルモンのアトリエに入ります。このコルモンという画家は、社会の現実を写真にも似た写実性でもって表現する流れ、つまり、自然主義を代表する画家でした。そのため、当時のロートレックもとても写実的な絵画を描いています。
このアトリエでともに生徒として画業の道を究めようとしていた青年こそ、ヴィンセント・ファン・ゴッホです。彼らの友情がどれほどのものだったのか、資料が残っていませんが、ゴッホの肖像画を手掛けています。
こちらは、ユトリロの母、として有名な、スザンヌ・ヴァラドンがモデル。
彼女はサーカスのブランコ乗りでしたが、けがをして、ルノワール、ロダンなどのモデルをしたことでも知られています。当時彼女は、マリアというあだ名で呼ばれておましたが、スザンヌというあだ名をつけ、さらに絵画の楽しさを教えたのは、ロートレックだそうです。
ロートレックが生きた19世紀後半のモンマルトルという場所が、今私たちが美術史の教科書でみるような重要人物であふれた、非常に濃厚な空間だったことがわかります。
こちらが有名なムーランルージュのポスター。
左が、ロートレックによる下絵。右が、リトグラフ(石板画)によって刷られたポスター。
当時芸術作品ではなく、使い捨てのチラシ程度の価値しかない広告ポスターを芸術の域まで高め、一躍有名になったのが、ロートレックでした。
中央のダンサーは、当時一世を風靡したルイーズ・ウェヴェール、通常ラ・グリュ。前景の鷲鼻の男が、軟体男ヴァロンタンで、彼女のダンスパートナーでした。彼女がスカートをたくし上げて躍っている踊りこそ、フレンチ・カンカン。文明堂のカステラの宣伝でおなじみ(古い?)、オッフェンバックの天国の地獄に合わせ、体躍るリズムに合わせて足を上げています。
フレンチカンカンという踊りは、もともとはキャドリーユという2から4組の男女ペアが一緒に踊るダンスから派生したそうです。キャドリーユという踊りのクライマックスが、最後にある男性ダンサーのソロで、飛び跳ねたり、パントマイムしたら、叫んだり、ダンサーの個性を表現する瞬間でした。そのソロ部分だけが取り出されて、そののち、シャユ、あるいはカンカンと呼ばれるようになりました。
カンカンダンスのあまりの激しさより、社会風紀を乱すものとみなされ、革命前はこのダンス自体が禁止される時期もありました。しかし、既存の社会規範を崩壊させる大きな事件、フランス革命の流れの中で、個人の自由を表現することが尊重され、カンカンがまた登場します。
と同時に、女性もカンカンを踊るようになり、スカートをたくし上げて、相手の目の高さまで足をけり上げるダンスが生まれました。女性がスカートを蹴り上げて、足を高く上げることは、女性の社会進出のひとつのシンボルと読むこともできる、と主張するのは、かつてムーラン・ルージュのダンサー、その後は振り付け師、そしてカンカンの歴史に関する著作もあるナデージュ・マルタ氏。彼女の著作、日本語訳はないですが、フランス語を読める方にはお勧めです。
特別展のお土産コーナーにも、マルタ氏の本は平積みされています。
男性はカンカンを見てとても喜びました。女性の社会進出ではなくて、女性のスカートの中が見えるためだったという、情けない話。
当時、踊り子たちは、キュロットといわれる、半ズボンのような下着をはいていましたが、そのような下着を公衆の面前で見せて踊るなどというのは、当時では考えられないことだったのです。さらに、トイレがしやすいように、股の部分に切れ込みがある下着もあったそうで。カンカンダンスを踊る女性の周りには、首をかしげた紳士たちが集まったそいうです。
現在のムーランルージュでは、ダンサーたちは、客席より高くなった舞台の上で踊りますが、当時は、客席とダンサーの踊る場所は同じだったのですね。ポスターをみると、一段高くなった舞台こんなところもおもしろいです。
後編にづつきます
(渦)
パリ発
【プライベートツアー】 ムーランルージュ ディナーショー&ドリンクショー
グランパレ開催、トゥールーズ・ロートレック展 前編
2019-11-25
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