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ヨーロッパには綺麗な自然に美しい街並み、中世の面影を残す場所や街がたくさんあります。
「水の都」といえばヴェネチアがでますが、これはたくさんの水路が張り巡らされたまさしく水と共に生きている街を表しています。同じ様に視覚的な特徴を表した表現として、「百塔の街」のプラハがあげられます。
これは教会の塔や、建物に付けられた塔がプラハ市内に多数存在し、それが街のイメージを作り上げた例と言えます。
ヴェネチアやプラハは街の雰囲気を表した表現が雅名としてなりましたが、みなさんは「音楽の都」という呼び名を聞いたことがありますか?
ヨーロッパ好きの方なら有名ですが、音楽の都とはオーストリアのウィーンを表した呼び名です。
音楽の都ウィーンはいかにして「音楽の都」になったのか?
音楽の都と上記でお伝えした水の都のヴェネチア、百塔の街のプラハと違うユニークな点として、音楽は触れない、目に見えないものが街の呼び名としている点ではないでしょうか。
たくさんの音楽家が訪れたり住んでいたウィーンは「音楽の都」に相応しいでしょうが、どのようにこの目に見えない「音楽の都」という称号を得たのか、音楽家達がウィーンに来た経緯やいくつかの理由に触れながら、こちらの記事でご紹介したいと思います。
中世ヨーロッパの音楽先進国ではなかったウィーン
ローマ帝国がウィーンの前身であるヴィンドボナを征服しローマ帝国領になり、12世紀中頃にはバイエルン公も兼任したオーストリア辺境伯ハインリヒ2世がウィーンに居城を移してからが首都としての歴史の始まりです。
13世紀半ばにはウィーンを支配していたバーベンベルグ家の男系が断絶し、ボヘミア王国のプシェミスル朝が代わりにウィーンを治めます。しかし1273年には当時弱小諸侯であったハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝になり、1278年のマルヒフェルトの戦いでプシェミスル朝を倒し、ここからハプスブルグ家が1918年までウィーンを統治下にすることとなります。
ウィーンの中世の歴史を見ると、プラハやローマ、パリなど他国の首都より歴史が深いわけではなく、支配者のハプスブルグ家も13世紀当時は有力貴族ではないため他国より音楽の点で優れていた訳ではありません。
世界屈指の音楽教育機関であるウィーン国立音楽大学(当時名K.K.Akademie für Musik und darstellende Kunst)の教授、故Max Grafとアメリカ人音楽学者、故Arthur Mendelは1940年の共著の記事にて中世のヨーロッパの音楽情勢について書いています。
その記事によると、13世紀まではパリがヨーロッパの音楽の最先端を行っており、変わって16世紀にはイタリア、特にローマとヴェネチアが当時の音楽の都として発展していき、ウィーンが音楽の首都として見られる様になったのは17世紀以降と伝えています。
他国の文化の影響を受けて発展するウィーン
上記の通り、ウィーンは中世、音楽の都と見られていた訳ではありませんでした。しかし17世紀の神聖ローマ皇帝であり、ハプスブルグ家当主のフェルディナント3世やレオポルト1世は音楽家へのパトロンになりウィーンでの音楽文化が発展していきます。
レオポルト1世の母親はスペイン王フェリペ4世の娘でマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ、レオポルト1世もスペイン王女と結婚したこともあったりと、オーストリア系ハプスブルグ家とスペイン系ハプスブルグ家は結びつきが強くウィーンにはスペイン文化が入ってきています。
例えば、女性の手の甲にキスをする文化は16世紀後半から17世紀ごろにスペイン文化を通じてウィーンに伝わったとされ、この文化は現在でもヨーロッパで残っています。
17世紀のウィーンに入ってくるのはスペイン文化だけではありません。スペイン文化の影響が伝えられる一方、ウィーンではイタリア文化が優勢になってきました。カトリックであったハプスブルグ家はローマ教皇とも距離が近く、当時音楽を牽引してきたイタリアの文化の影響も多分に受けており、中世の教育の大部分を担っていたカトリック修道院もイタリアとの繋がりがあります。
こうしてウィーンは、当時文化先進国であった他国のヨーロッパ文化と音楽を受容して発展していきました。
オーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の地理
見出しで「オーストリア帝国」としていますが、これは1867年のオーストリアとハンガリー間のアウスグライヒ(ドイツ語で妥協)が結ばれるまでの国名で、アウスグライヒが結ばれてから1918年の第一次世界大戦までは「オーストリア=ハンガリー帝国」が国名になります。
アウスグライヒが結ばれる1867年以前の国名はハンガリーが領土に含まれるものの「オーストリア帝国」と呼ばれていました。
さて中学校や高校で近代世界史を学んだ人にとってはオーストリア=ハンガリー帝国という名前に馴染みがあるのではないでしょうか。
ハプスブルグ家がウィーンを首都として中欧で覇を唱え、南チロル地方など現在のイタリアの一部やチェコ、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、ボスニアなど広大な地域を支配していました。
これはつまりオーストリア(またはオーストリア=ハンガリー帝国)は他民族、多言語国家でもあったのです。結果、18世紀のウィーンにはドイツ系、チェコ系、ハンガリー系、クロアチア系などのバルカン半島系住民、スペイン人修道士にイタリア人修道士、他にもフランス人傭兵に、イタリア人商人、トルコ人商人、そしてイタリア人芸術家など様々な地域の人が住んでいたコスモポリタン都市でした。
他国、他地域で戦争に参加などあれど、17世紀後半の第二次ウィーン包囲戦以降、ウィーンが他民族文化都市として目覚ましく発展していき、音楽の都の礎はこの時代にできたと言えます。
パトロンと教会
他国でもそうですが、ハプスブルグ家を初めとした貴族が音楽家や芸術家のパトロンになっていたこともウィーンを音楽の都にならしめた理由の一つと言えます。
神聖ローマ皇帝であったフェルディナンド3世、レオポルド1世、ヨーゼフ1世、そしてカール6世は自身でも作曲をし、そして貴族達もハプスブルグ家に倣い宮廷楽団などを作っていき音楽家を庇護していきます。
これが上からの音楽の文化の流入とすると、下からの流れとして教会がウィーンの音楽文化を支えていきます。
16世紀や17世紀の音楽を牽引してきたイタリアの音楽は教会を通してバロック音楽がウィーンにもたらされているのです。
こうしてウィーンの音楽は上からは貴族階級を通してオペラなどが入っていき、下からは教会を通してバロック音楽が市民達に伝わっていきました。
その上に他民族でコスモポリタンな文化とイタリアとスペインの影響が大きく混ざり合ってウィーンが楽都としての栄光を勝ち取っていくのです。
そんなヨーロッパの音楽の中心地となってきたウィーンはモーツァルトやベートーベン、フランツ・リストなど名だたる音楽家が集まる都市になっていきます。
中欧の偉大な三人の音楽家:モーツァルト、フランツ・リスト、スメタナ
他国からの影響、コスモポリタン都市、そしてパトロンと教会を通しての音楽の流入を経て音楽の都となったウィーンとオーストリア帝国ですが、19世紀の大きなうねりに巻き込まれます。
アウスグライヒによるハンガリーへの妥協によりオーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国と様変わりし、他方でもボヘミア地方(チェコ)で独立の機運など様々な変化が起きていた激動の時代でもあります。
変化する時代に中欧の音楽はどの様な様子を見せていたのでしょうか?
そんな国民国家の機運と音楽の系譜をみゅうショップでは中欧3人の音楽家と共にオンラインツアーで紹介していきます。
オーストリアからは18世紀の音楽の巨匠モーツァルト、ハンガリーからはピアノの魔術師として当時大人気だったフランツ・リスト、そしてチェコからはチェコ音楽の祖とも称されるスメタナを取り上げます。
このオンラインツアーでは中欧の音楽の系譜をモーツァルト、フランツ・リスト、スメタナのゆかりの地であるウィーン、ブダペスト、プラハを通して見ていきます。
音楽の教科書にも載っている3人の偉大なる音楽家を、中欧オーストリア帝国(またはオーストリア=ハンガリー帝国)の枠組みから音楽家とそのゆかりの地、そして彼らの歴史などをオンラインツアーにて大解説します。
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音楽家とオーストリア=ハンガリー帝国:ウィーンが音楽の都と呼ばれる様になった理由
2021-03-24
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