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冬のレオンの続きです。
朝起きて、ホテルの窓から見える空は雲で覆われて暗く、いつ雪が降り出しても不思議じゃないない寒さ。
どーしよーかなーと一瞬の迷い、いやいやせっかくレオンに居るのだから、アストルガへ行かないなんてもったいない、と思い直し、元気にバス停まで歩き、アストルガ行きのバスに乗りました。運よく急行バスだったので40分ほどで到着予定。アストルガが近くなるといよいよ空は暗くなり、みぞれ交じりの雨まで降り出しました。
アストルガに到着して、バスターミナルを出ると、目の前にローマの城壁が、そしてその向こうに司教館がそびえていました。
12世紀、レオン王国の女王、ウラカ1世によって造られたアストルガの司教館は1886年12月23日、火災によって完全に消失。当時のアストルガ司教だったグラウ司教は、同郷(カタルーニャのレウス)の建築家、アントニオ・ガウディに新しい司教館の建築を依頼しました。この時期、中世ゴシック建築に独自の新しい試みを加えるスタイルに熱中していたガウディは、ネオ・ゴシック建築の美しい司教館をデザインしましたが、グラウ司教が死去すると完成を待たずしてガウディも辞任してしまい、建築が中断、1915年にようやく別の建築家によって完成されました。
曇天にそびえる司教館、ホラー映画の一場面のようですね。
スペイン内戦時、この建物はファランヘ党の支部だったそうですが、1950年代末に再び司教館とするために修復工事が行われましたが、結局、司教館として使われることはなく、1960年に着任した
ゴンサレス・マルティン司教はここをサンティアゴ巡礼に捧げる「巡礼博物館」としました。現在もここは司教が住んでいる場所ではなく、一般公開されている博物館となっています。
アストルガの起源は、鉄器時代に先住民族のアストゥール族による集落、カストロがいくつかあったところに、紀元1世紀にローマ人が軍事キャンプを設置、カンタブロの戦いの後、当時この近くのラス・メドゥラス金鉱山で採取された金の集積所として町ができたと言われています。
3世紀半ばにはローマ帝国支配のこの地域にもキリスト教が広まり、ここにスペインで最初の司教座が置かれたのだとか。
司教館(巡礼博物館)の地下フロアには古代ローマ時代に属するキリスト教に関連する様々なアイテムが陳列されています。
1階はイスラム教のモスクを思わせるような作りになっています。
5世紀、民族大移動の波が押し寄せ、スペイン北西部はスエビ族が支配するようになり、この地方もその統治下となりますが、やがて南から攻め入るゴート族との領土争いの戦場となり、8世紀初めにはイスラムに侵攻され、荒廃していきます。11世紀、レコンキスタを主導したレオン王国は首都をレオンに移したので、アストルガの重要性は希薄になって行きました。
建物2階部分には礼拝堂、司教の間、食堂などがあります。
ステンドグラスが美しい礼拝堂
司教の間
ステンドグラスの紋章に見える真っ赤なハート?
これもガウディの意匠でしょうか。
様々な時代の宗教アイテムが見られます。
壁には司教様たちのミニチュア。
ロマネスク様式の聖母子。
右端は聖アガタですね。
司教館と巡礼博物館を堪能した後は、ちょっとアストルガの街を散策。人口1万2千という小さな町で、司教館と大聖堂の前から一番の目ぬき通りをまっすぐ進むと突き当りがマヨール広場で、その先に市庁舎があります。
一番の目抜き通り
建物の壁に描かれているのは名物のお菓子「マンテカード」の広告?
由緒ある市庁舎の建物
そして、最後に訪れたのが、ガウディの司教館の横に建つ、アストルガの大聖堂。
その起源は3世紀まで遡ると言われるもので、それまであったロマネスク様式に代わって現在の建物が造られたのが15世紀半ば、それ以降、18世紀まで後期ゴシック、ルネッサンス、そしてバロックといくつもの異なる様式で増築が行われて、今の形になりました。
バロック様式のファサード
目の覚めるようなバロック様式の主祭壇は圧巻です。
大天使ミカエルの礼拝堂もめいっぱいバロック、金色に輝くチュリゲレスコ様式。
寒い中、観光をした後は、司教館に面したレストランでランチ。
あったかーいスープを頂き、冷えた身体もポカポカになりました。
寒い一日でしたが、頑張って来た甲斐が十二分にありました。
レオンを訪ねたら、バスで1時間弱のアストルガは是非お勧めの場所です。
おしまい。
Lucymama
冬のアストルガに行ってきました!
2019-01-19
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