【2022年イタリア観光】ロ-マ戦争博物館に行ってみた!続編! みゅうローマ みゅうベネチア ブログ記事ページ

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    【2022年イタリア観光】ロ-マ戦争博物館に行ってみた!続編!


    2022-01-24

  • Buongiorno

    イタリア政府公認旅サポ-ト、マジカ⭐イタリアのケイティです。

     

    先日の*ロ-マ戦争博物館に行ってみた*(07/11/21の記事)の続編です。

    まだお読みでない方は、まずはそちらをご覧ください♪

    ↓↓↓↓↓

    https://www.myushop.net/rome/blog/detail/6822/

     

    現在博物館となっているこの建物はドイツ支配下でのロ-マではナチスSS管理下の監獄として使用され、反ファシスト、スパイ、ユダヤ人、パルチザン、政治犯が収容され拷問が行われていました。

    ここからも1944年3月24日の*アルデアティーナの大虐殺*に罪のない彼ら(男性のみ)が連行され洞窟の中で335人が銃殺されています。

     

    実はこの*アルデアティーナの大虐殺*が行われた前日の23日にトレビの泉の近くラセッラ通り(観光バスでトレビの泉に行く為にバスを下車した所、記憶にありますか?降りた直ぐの右の通り)にて昼食時の人通りの少ない頃パルチザンによるドイツ兵への爆弾による襲撃が行われました。今でも爆破による戦跡が残っています。

     

     

    ムッソリーニが拘束され国王、首相もいない無政府状態のローマを支配していたドイツ兵は毎日の巡回でスペイン広場からそのラセッラ通りに入りました。

    市の清掃人を装ったパルチザンが仕掛けた清掃用のごみバケツの置いてある手押し車の近くにさしかかった時、彼らの仕掛けた爆薬に点火。

     

     

    33人のドイツ兵が死亡。

    仕掛けたパルチザンは群衆に紛れて全員無事逃走。

    このラセッラ通りには爆破の後は残りますがあのような時期ゆえヒーローに成れるかとも思われるドイツ兵を狙ったパルチザンの記録を残す記念碑など一切ありません。

    身内を殺された家族からすれば何も関係のない者が翌日の*アルデアティーナの大虐殺*の犠牲者になるわけで非常に微妙な問題があるからだと思われます。

     

    ヒットラーからは24時間以内に報復せよ、との命令。

    ロ-マSS長官のカプラーは殺されたドイツ兵1名に対しイタリア人10名+偶然の犠牲者5名合計335人をアルデアティーナ洞窟にて銃殺、の指令を実際に指揮を執ったプリーブケに依頼。

    ロ-マの刑務所や現博物館等から連行された罪の無いイタリア人、ユダヤ人は肉運搬用の車にて洞窟に運ばれ5名づつのグループとなり後ろ手で縛られひざまずかされ頭を後ろから撃たれました。

    次々に銃殺が行われ殺された人の上にひざまずかされ1つの洞窟がいっぱいになれば次の洞窟へと移ってのおぞましい行為が続きました。

    銃殺の経験が無かったドイツ兵にはカプラーはコニャックを飲ませてまでも続行させました。

     

     

     

     

    このカプラー、バラ作りが趣味の当時37歳の独身ですが映画のようなドイツ軍によるムッソリーニ救出劇にも関与、ユダヤ人から50kgの金の要求、1000人のユダヤ人をアウシュビッツへ送った人物でした。

     

    その後虐殺行為を隠蔽する為にその死体の重なった洞窟に爆弾を仕掛け爆破。

    それを隠れて見ていた農民が連合軍に伝えて明るみに出ます。

     

    前回のブログで紹介した地下に隠れて活動をしていたジュセッペモンテゼーモロ大佐(フェラーリ社、アリタリアの元会長のルカモンテゼーモロとは近い親戚)を含む335人は現在洞窟のすぐ隣に眠っています。

     

     

     

    このモンテゼーモロ大佐は銃殺される前日(ラセッラ事件のあった日)も拷問を受けており、両目は腫れあがり唇からは血が流れていました。

    連日の拷問であごの骨を折り発熱していたにもかかわらず冷静で威厳を失わなかったそうです。

    現在この事件を忘れない為モニュメントが広場にできています。

    そして資料館も併設され毎年この日24日には大統領も参加して追悼式が行われます。

    場所はサンカリストのカタコンべの近くです。

     

     

    この事件を映像で確認するには「裂けた鉤十字、ローマの虐殺」マルチェッロマストロヤンニ、若きモリコーネの音楽でご覧いただけます

     

     

     

     

    罪の無い人々が銃殺されたこの日から3か月後にローマは連合軍により解放されました。

     

    このカプラーは戦後終身刑にてガエータ刑務所に収容、しかし、70年にがんの為ロ-マのチェリオ陸軍病院へ。

    そして彼の逃亡劇に一役かう事になる看護婦のアンネリーゼと結婚します。

    76年末期胃がんで体重47kgになったカプラーを01:00-08:00までのチェックの無い時間帯を見計らって彼女が支えてゆっくりと階段を降りスーツケ-スの中に隠れさせドイツへ逃亡。

    6か月後死亡。

    別の説では病院の3階からロープで降ろして脱出させたとも。

     

     

    ここからはて、ロープで降りられるのか?

    実はみなさんは市内観光中にこの病院もご覧になっていますので次回検討してみてください。(コロッセオ観光が終わりバスに戻って動き出してすぐの左に見えます)

     

     

     

    この病院を過ぎて今度は直ぐ右に古代ローマを囲んでいたセルビウスの壁の一部、ネロ皇帝が引いた水道橋の支えとして使ったドラベッラのアーチ、ほぼ今度は同位置左にその古代ローマへ上水を供給していたクラウデウス水道支流のネロ水道の穴も見えます。

     

    左右、忙しいけれど見どころいっぱいのローマです。

    これで観光がぞくぞくしてきましたね。

    A presto!


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