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こんにちは!
ローマの公認ガイド/ みゅうレディースチーム メンバーのササネッリ 恵子です。
紀元後 79 年にベスビオス山の噴火により火山灰、火山礫に埋もれてしまったポンペイの町は1848年スペインのカルロス王により発掘が始まり、66ヘクタールある町の四分の三が発掘されました。
発掘したものを保存、修復するのには莫大な費用がかかり戦後新しい発掘は行われませんでした。
(ボランティアによる考古学の学生たちの調査のみ)発掘270年後の2018年から再び国による発掘が始まりそれによっていくつかの新事実が明らかになったそうです。
1 噴火の日にち
一世紀に「博物誌」を書いた大プリニウス(79 年のベスビオス山の噴火で死去)の甥の小プリニウスがタキトゥスに送った手紙にベスビオス山の噴火は8月24日の昼頃と書かれてあったので長い間この説を誰も疑わなかったが、新しい発掘により新たな事実が発覚。(日本の TV のドキュメンタリーで放映したのでご存知の方も多いと思います。)
・ブドウを発酵させる容器が封印されていた。
(ブドウの収穫は9月以降)・鉄の火鉢に火が焚かれていた跡があった。
(火鉢を使うのは秋以降)・「金のブレスレットの家」から79年9月に鋳造されたコインが発見された。
・修復中の家の壁に炭で10月17日の日付けが書かれていた。
(オリーブオイルを貯蔵庫からした日付け?)炭は長くは残らないので噴火の 7 日前に書かれたものではないか?これらのことから小プリニウスの記した日にちは間違って訳されていたのではないか。
ベスビオス山の噴火は8月24日ではなく10月24日だとポンペイ遺跡所長 Massimo Osanna 氏によって訂正されました。
2 ポンペイの町を建設したのはエトルリア人
アウグストス帝時代のギリシャの地理学者ストラボーンの「地理誌」によるとポンペイの町は原住民(イタリキ)サムニウム族系のオスク人によって建設されたと記されているので、この説が正統でした。
2020年海に続く道の長方形の神殿から発見された儀式に使用する酒杯に神殿に奉納金を寄付した人々の名前が記されていました。
その名前はすべてエトルリア人の苗字でカンパーニャ州では知られていないいくつかの苗字はエトルリア人の中心であるラツィオ州、トスカーナ州では著名な家系でした。
これらの捧げられた奉納品には ‘’APA′′エトルリア語で‘父’という文字が記されています。
アポロ神殿から最近発掘された奉納品にもエトルリア語のアルファベットが書かれていたことからポンペイの町を建設したのはオスク人ではなくエトルリア人であるとポンペイ遺跡所長のMassimoOsanna 氏と考古学者たちにより発表されました。
紀元前7世紀にエトルリア人は南イタリアに進出し、ポンペイもエトルリア人の影響を受けているということはわかっていたが、この二つの新事実は2000年前の記述をくつがえす非常に重要な発見です。
ということは、Torre del Greco の有名なカメオ工房「APA」の先祖はエトルリア人だったのでしょうか? エトルリア人は貴金属の装飾にも優れていたのでその技術が今も受け継がれているということなんですね。
エジプトのピラミッドや神殿などポンペイより古い遺跡はたくさんあります。でもポンペイのように台所やトイレ、浴場、バール、レストラン、パン屋など人間の生活の匂いを感じさせる遺跡は少ないですから、どれだけお金がかかっても私たちの子孫に是非残していってほしいと思います。
「人類の遺産」です。
ベスビオス山は紀元後79年の噴火後も何回も噴火をしていて最後の噴火は1944年ナポリが(イタリアが)終戦を迎えた年でした。
しかし、地下のマグマに不穏な動きがありいつ噴火してもおかしくないといわれているので再びポンペイが埋もれてしまう可能性なきにしもあらず。
埋もれてしまう前に是非「ポンペイの遺跡」を訪れていただきたいと思います。
【ポンペイ発掘270年後の新事実】今までの歴史を変えた証拠とは…
2021-05-22
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