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※ 写真は本日付けの新聞に出ていた歴代の教皇リストです。
「自己の意思による退位」は
ケレスティヌス5世 (聖ピエトロ・デル・モッローネ)以来
とご説明しましたが、
1415年のグレゴリウス12世以来、
約600年ぶりとなる、という記事もありましたので
ちょっと複雑ですが、その辺を今日は少しご説明致します。
先ずはアナーニ事件(1303年) からことは始まります。
フランス王フィリップ4世の臣下の侮辱により
ボニファティウス8世が憤死します。
短い治世の時代の教皇は飛ばして2代後、
1305年に教皇となったクレメンス5世の時代に教皇庁が
アヴィニョンに行ってしまいます。
( 最初フランス各地をふらふらしてアヴィニョンに居着いたのが1309年 )
これがアヴィニョン教皇庁時代 (1309-1377年) です。
その後、シエナの聖カタリナの説得などで、
グレゴリウス11世が1377年にローマに帰還することを決めます。
しかし、この教皇は翌1378年に亡くなります。
その後の教皇選挙が大変だったと言われていますが、
バーリ大司教が、ウルバヌス6世として教皇になります。
( 枢機卿でなかった最後の教皇となります。 )
一旦選ばれると、ウルバヌス6世は選挙時の約束を守らず、
枢機卿会を軽視しました。怒った一部の枢機卿達が
教皇の退位と新教皇 ( 対立教皇 クレメンス7世 ) の選出を宣言します。
( 今ではこれは無効ということになっています。)
これが大シスマ ( 教会大分裂 1378-1417 年) です。
ローマとアヴィニョンに2人の教皇が立つ、異常な事態となりました。
今ではローマが正統、アヴィニョンが対立教皇となっていますが、
当時の人はどちらが正しいのか分からなかったでしょう。
1409年、この問題を解決しようとピサで教会会議が開かれました。
会議でアレクサンデル5世を選出したのですが、
ローマの教皇 ( グレゴリウス12世 ) も、
アヴィニョンの教皇 ( ベネディクトゥス13世 ) も、
どちらも辞めなかったのでどうなったか、3人も教皇が居たのです。
1414-1418年のコンスタンツ公会議は
この教会大分裂を解決するために開かれました。
コンスタンツ公会議では1415年、
ローマ、アヴィニョン、ピサの教皇の廃位を宣言します。
- ローマのグレゴリウス12世は退位勧告に同意し退位します。
- アヴィニョンのベネディクトゥス13世は同意せず、
死ぬまで自分の城では自分を教皇と呼ばせていたようですが、
召使い以外は誰も相手にしていませんでした。
- ピサのヨハネス23世はあわよくば自分が
唯一の正統な教皇になろうとしてコンスタンツへ行きますが
失敗して逃亡 ( 後に枢機卿としての地位を認められます。)
1415年のグレゴリウス12世の退位は教会大分裂を解決しようとする
公会議に迫られたものであり、決して自分の意思からではなかった、
ということになります。
今回も友人のぴおぴおさんから情報をいただきました、
ありがとうございました!!!!
本日もみゅうブログサイトへお越しいただきありがとうございました。
ローマ法王ベネディクト16世、退位表明 その2
2013-02-12
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