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【黄葉の旅1】の続きです。
ラス・メデゥラスとは一体、何でしょう?
ラス・メデゥラスで一番高い場所にある展望台、オレジャン展望台のパノラマ。
とおーい昔、青銅器時代、紀元前8世紀ころから紀元1世紀頃、スペイン北西部にはいわゆる「カストロ文明」に属する部族が暮らしていました。カストロと呼ばれる住居が特徴のこの文明、ガリシア州からカスティーリャ・イ・レオン州にかけて、その集落跡をあちこちに見ることができます。その中でも、このエル・ビエルソ地方に住んでいたのが「アストゥーレス」と呼ばれる部族で、自給自足の集落が200近く存在していたそうです。そのころから、この地域では原始的な方法で金が採取されいましたが、あくまでも力のある者がそれを示すためのシンボル(ジュエリー)を作るために金を採取したのだそうです。小さなイヤリングをひとつ造るための金を採取するのに3年かかったという、贅沢なものだったとか。
紀元1世紀になると、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスは自ら指揮して、スペイン北部を制圧、通貨制度が採用され始めていたローマはこの地で採れる金に目を付けました。支配下に入ったアストゥーレスの民に課税の代わりに「労働力」を提供させ、奴隷をローマから連れて来るよりずっと効率の良い無料の労働力を使って、広大な金鉱山の運営を始めたのでした。
では、どうやって、金を採取したか?
古代ギリシャの知恵を基に、古代ローマの技術力を駆使した、ルイナ・モンティウム(Ruina Montium)と呼ばれる採鉱法でした。
火薬のなかったこの時代、ローマ人は山を切り崩すために水を使いました。
ラス・メデゥラスのあちこちに掲示されていたこのイラストを見ると、良く分かります。
山の上から、まず垂直の穴を掘り下げる。垂直な穴から水平な穴を多数掘り広げる、まるで山の内部にアリの巣をつくるっているみたいですね。
そして山の上の入り口から一挙に大量の水を流し込むと、流れ落ちる水の力で崖が崩れ、山自体が崩落する、という仕組みです。
オレジャン展望台からは、現在も保存されているこの横穴に入ることができます。私たちも実際に横穴の中を歩いてみました。
ツルハシで岩を削った跡がよく分かります
水の力で崖に開いた横穴の出口。
では、山の上にどうやって大量の水を貯められたのでしょう?
恐るべし古代ローマの知恵と技術。
現在のラス・メデゥラスはこの鉱山で行われたルイナ・モンティウムの最後の部分ですが、鉱山のシステムはこれよりも非常に広い地域をカバーしていました。まず、鉱山として切り崩す山々の近くに多量の水を貯めておく、たくさんの池が必要になります。
そこに水を引くために北はアキリアーノ山地や南のカブレラ山地などの高い山々から総延長300㎞にも及んだと言われるカナルと呼ばれた水路を造りました。
山の斜面を切り開き、重力に耐えるように、上の写真の黒いイラストのように石を積んで造られたこれらの水路は現在もあちこちで農業用道路などとして使われているほど堅牢なもの。
現在も当時に近い形で残っている水路跡。
雪を頂くアキリアーノの山、あそこからも延々と長い長い水路を引いて来たのですね。
高い山々から水路で水を引いて来て、たくさんの貯水池を造り、その水を一挙に山の中に掘った竪穴や横穴に流し込んで崩落させる。
そうして発生した土石流を流す水路、カナル・デ・ラバド(選別水路)と呼ばれるものをより低い地形に建造して、最初の部分は大きな岩や石をまず取り除く。
その後、傾斜の穏やかな水路へと続きここではでは木枠で造られた水路の中にスペイン語でブレソと呼ばれる植物(日本語ではギョリュウモドキ)をたくさん敷いて水の中にあるの金の粒子をこの植物の細かな葉や枝に付着させ、この植物を取り出して燃やします。焼いた灰を再び水に浸けて、金を選別します。
こうして金採取の様々な作業に利用された水は、最後にはシル川に流れ込み、ミーニョ川を経て、最後は大西洋へ注ぎます。
カブレラ山地から見た、かつてカナル・デ・ラバドがあった低地の景色。
役目を終えた水が溜まってできたいくつもの湖のひとつ。
そしてまた別の湖、ラゴ・デ・カルセド。
こうして、ローマから派遣された軍隊とその技術者の指揮の下、5000人にもおよぶ現地の人々の労働力を投入して運営された金鉱山でしたが、紀元3世紀、ローマ帝国が存亡の危機に陥ると、この鉱山の活動も衰え、その後、長―い年月忘れ去られていました。
1996年にスペインの文化財に指定され、1997年にユネスコの世界遺産に登録されて以来、観光地として注目されるようになりました。ラス・メデゥラス金鉱山跡のど真ん中にある村が同名のラス・メデゥラスで、ここにある案内所では1日2回、ガイド付きツアーを催行しています。
私たちも朝のツアーに参加しました。
金を採取するために崩した山の跡は、このような赤い粘土層の地形の間に夥しい数の栗の樹があります。
どこもかしも栗だらけ。
この栗の木も、古代ローマ人がもたらしたものだそうです。
当時、農耕地も少ないこの地方、炭水化物だけでなくミネラルなども豊富な栗は人間の食物としてはもちろん、家畜の飼料にも使われたほか、家や家具の材料にもなったとか。
お土産物も栗だらけ。栗のケーキ、栗のお菓子、そして栗のビールまで。このビール、古代ローマ人も飲んでいたとかで、なかなか美味しいのです。
黄葉も綺麗。
ラス・メドゥラスの内部をガイド付きツアーで案内してもらった後は、ラス・メドゥラス財団が運営する4x4の車で行くドライバガイド付きのツアーで周辺の見どころを案内してもらいました。
まずは、北のアキリアーノ山中の村、ビジャビエハにあるコルナテル古城へ。ビジャビエハ村と黄葉。
お城への入り口
林を分け入り、凄い山道を登ると、崖の上にそびえる古城に到着。
ヨーロッパの民族大移動のころ、この地方にやってきたスエビ族が造った砦城がこの城の起源だそうで、その後、中世にはテンプル騎士団の所有となり、カスティーリャ王国支配後はビジャフランカ侯爵領となり、現在も同侯爵が所有しているのだとか。
左下の展望台の上にベンチがひとつあります。「エル・ビエルソで一番美しい景色が見えるベンチ」と書かれています。どこかで、聞いたような名前ですね。
そのベンチからの眺めがこれ。エル・ビエルソの盆地全体とその向こうの山地まで、素晴らしい眺望が広がります。
次に向かったのは、Castrelin de San Juan de Paluezas、カストロ文明に属した「アストゥーレス」族の集落(カストロ)跡のひとつです。
川に近い高台に集落を造って暮らしていた人々。ローマ軍に敗れてからは、金鉱山の労働力として使役を課されていたのですね。各集落にかならず金属加工専門家とその家族が住んでおり、代々、村人が必要とした金属製の道具や権力者のジュエリーを造っていたのだとか。
この地域の高台を掘れば、まだまだたくさんのカストロが出て来るらしいです。
次に立ち寄ったのは、ラス・メドゥラスの金鉱山で必要とされた様々な金属工具(ツルハシなど)を造っていたローマ人の専門家たちが住んでいた団地の跡。カストロより少し洗練されているのが分かります。
金鉱山全体の総指揮官の邸宅跡にも立ち寄りました。2000年前にして、スチーム床暖房完備の邸宅だったそうです。
そして最後に訪ねたのは、ガリシア語でZufreiros del Frade(コルク樫の森)と呼ばれる場所。
ガリシア州との州境、シル川に近い森に樹齢数千年の巨大で「老獪」と形容したくなるような樫の樹が集まっています。ローマ人の金鉱山があったころからここに生きていた樹たちの周りには、やはりただならぬオーラが立ち込めていました。
ラス・メドゥラスのとその周辺の興味深い場所を全部訪ねることができたとても欲張りな一日でした。いろんな黄葉も見ることができたし。
明日は、いよいよ、最終日、レオン県で最も紅葉の美しいと言われる場所のひとつを訪ねます。
【黄葉の旅3】へ続く
Lucymama
【黄葉の旅2】 ラス・メデゥラスとその周辺
2018-11-25
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